未開を認めたら死ぬ病

俺が近代文明の淵源にのめり込む切っ掛けになったのは、学校で習った事が社会で通用しないと言う疑問からだった。

柳田國男も、「私は学校にいる時分、外国の本で経済学を教えられた人間だが、今日に至るまでも実は本と自分の生活とが、はだはだになって繋ぎ合されぬのに困っている。」と言っている。

詰まり、真善美が衣食住に反映していないと言う疑問である。

何故真善美が衣食住に反映しないか、

たとえ、日本人が相対化の能力に欠けるからとはいえ、

それは何と言っても社会と世間の二重構造が元凶だろう、

輸入の社会システムは教育に至るまで建前であり、本音は世間であり虐めである。

輸入の学問は憲法に至るまで建前であり、本音は情緒至上主義であり、人治主義である。

日本人は、何かと言うと、日本の心は輸入の学問では解けないと言いたがる。

それもその筈、海外の学説はデカルト以降の社会に対応していて、日本の様な前近代、未開の中世オカルトの社会には対応していないからだ。

矢張り、加藤周一氏の、所謂、「日本は思想と生活が全く関係ない、何故なら、思想が外来だから」に尽きるだろう。

 

次は俺が四十の頃まだ頭の中に予備知識が何も無いうちにメモ代わりに書いておこうと思い、五百部刷って名刺代わりに配っていた小冊子、『ワンネス』の抜粋だが、

「私が会社を辞めてから、一時家に籠って悩んでいた事があった。 色々な本を読んでも難し過ぎるし、考え疲れて、どうした物かと思案に暮れている時、ふと哲学とはこうして自分で考える事にあるのではないかと思い付いたのだ。  暫くした或日、本屋を歩いていた時、澤瀉敬久先生の『「自分で考える」ということ』という本を見付けて驚喜してしまった。 この本はわたしにとって一生離せないと思う程度になる本で、いまでも一冊だけ良い本の名を挙げろと言われたら、文句無しにこの、『「自分で考える」ということ』を挙げると思うくらいである。

「私がこの本と出会い、少なくとも哲学というものに対して構えてしまう気持がなくなったことは、如何に澤瀉先生という方が、偉大な哲学者で誰にでも理解し易い平易な文章でお話になり、又お書きになっているからだろうと思う。」 「 物質文明、或いは拡大再生産に疑問を持って会社を辞め、人生について深く考えていた自分にこの本がきっかけとなり、少し明かりが見えたのである。」

 

次は俺が五十の時それまでに千々に乱れた人格を統合するする為に書いた、自伝の抜粋であるが、

 

「以前フランスで哲学をしていたと勉強していたという友人に、「人生ってものは、日常の単純な営みに喜びを見い出せなければ負けだよね」と言った処、その友人が、「それはかつてスピノザが言いました」と尤もらしく、もうそれは古いと言わんばかりに答えた事がある。 」 「秀才は兎角知識だけは豊富であるが、筆者はそれを敢えて知識と呼ばずに情報と呼ぶ事にしている。」 「あくまでも自分で簡潔に括り出すというのが基本だと信じるからである。」

「その時、以前筆者が離婚したかどで家を追い出されて所沢に独りで暮していた時、父親に、「俺は閃きというものは、平坦路では出ないもので、がたがた道を歩いている時に出ると思っている」と言った処、父が、「それはかつてキルケゴールが言った」、「エジソンも同じ事を言ってた思う」と答えた事を思い出した。」

「人が無い頭を振り絞って悩んだ末にやっとの思いで括り出した答を、いとも簡単にそれは誰々が既に言いましたいってのけられるのは大したものだと思う。 そういう人間に限って、頭の中の情報を咀嚼して知識に迄高める事が出来ないのである。」

「 以来筆者は、カントがどうのヘーゲルがどうのと言う類いには耳を傾けない様にしているのである。」

これが今回の紛争の切っ掛けになった、水道屋と自転車屋が絡んで来て論破したと勘違いし、美酒に酔いしれて乾杯していたのに腹を立てて、ネットで拾った水道屋の自費出版の目録を晒し、哲学書を何冊か訳しても自身が哲学をしなけりゃ何にもならないと揶揄し、水道屋を激怒させた理由でもある。

きっと図星だったに違いない、Truth Hurts!

今回判明した、ヘーゲルもマルクスもフリーメイソンだったという事実は、何も陰謀論でも何でもなく、水道屋がありもしない、普遍だ絶対だと切り捨て、ドイツの観念論だと断言したのは何の事はない、フリーメイソンの提唱した普遍主義に相違ないと言うことだ。

詰まり、海外の学説は全て普遍主義を前提に成り立っていると言う事だ。

水道屋何年やってたか知らんが、普通は40に差し掛かれば海外の学説は日本の社会とは何ら関係ないと気付くもんだよ。

日本の社会は再チャレンジ可能な社会じゃないから40になって間違いに気付いても転向出来ない、後は惰性で生きる事になる。

自分の半生を否定し、国の礎を否定する事になるからだろう。

結局は皆ここに行き着くって訳だ、日本そのものでさえ例外ではない、遅れを認めちゃうとそれまでの前提が全て覆されてしまうので、違いで誤魔化す。

西部邁氏のケースもこれなのだと思う、何せ西部邁=Go Westなのだから。

 

御都合主義国家の終焉

 

俺が2001年に豪州に来て最初に開いたホームページのタイトルはパラダイムシフトであり今でもHTMLは変わらない。

今迄幾度ともなく遅れととるか違いととるかと言って疑問を発していたが、勿論人為を超えた次元を超えた違いは、違いには違いないのだが、これを遅れととると、今迄の前提条件である近代の超克を果たしたと言う事が覆されてしまうのだ。

何の事はない、謝ると死ぬ病も、認めると死ぬ病も元は同じ、未開だと認めない事にあるのかも知れない。

根拠のない全能感も日本人無謬論も未開性を隠す為の開き直りだったって事です。

 

 

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小さいところでは、俺の70年の人生は一体何だったのだ、って感じであり、再チャレンジ不可能な日本の社会では死活問題なのだ。 詰まり、日本人無謬論を忘れ、根拠のない全能感を捨て去る事こそがパラダイムシフトであり、ルネサンスなのである。

柳田國男だって常に警告を発していたではないか。

「私が最も恐れることは、事実に基かぬ早急な一方的判断の横行と共に、専ら洋学のセオリーを日本の現実に当て嵌めて足れりとする現在の一般的学問である。」

「かかる風潮を私が恐れるのは、何も私のナショナリズムではない。」

「日本は独仏伊その他欧州諸国とは異なって、永い間の固有の閲歴が背中にくっついているのだから、西欧社会から生れた洋学の理論が其儘この日本に適応し得るとは到底思へないし、それでは理解し得ぬものが後に必ず残るはずである。」

「人間は凡そ何処も同じで何処かの優れたセオリーを持って来れば何事も全て解けるといふ考へ方は、最も実り少い学風ではないかと思ふ。漢字を支那から輸入して今以て苦しんで居る日本の実情は其一例であらう。」

「本で外国の理論を読むことも参考にはなるが、それが果して我々の場合に、きっちりと当てはまるかどうかはまた一つの問題である。」

「ことに政策の模倣ということは、日本の新文化の最も醜陋なる一側面であって、近い過去の経験を回顧してみても、まぐれ当りにも当ったものが半分には足りない。」 

「どうしてもその他の半ば以上が脆くも挫折し去り、または流弊ばかりを後に遺しているかというと、言わば輸入学説の適用が精確でなかったからで、本当はうわべばかりの猿真似だったからである。」

「かりにも文明国と名のつく国で、日本ほど自ら知らなかった国は少ないだろう。」

(中略)

「今日は個人の自由だの平等だのを説きながら、なお依然として実地を省みない概括論を押し通そうとするのである。やがて馬脚を露わすにきまっている。」

以前も書いたのだが、どう言う訳か『「個人学」の勧め』から抜けてしまったみたいでリンクを貼るが、プラトン的イデア或いはプラトン的観念論に言及した人はこの御二方しか見付からなかった。

注目すべきは柳田國男の言葉である。

 

加藤周一氏が「日本人とは何か」 の中でで述べられている様に。

「問題の外来思想は西洋思想であったが、いうまでもなく西洋はキリスト教世界であり、そのなかにプラトン的観念論を含む世界である。別のことばでいえば、その世界での価値概念乃至真理概念は、歴史的に、超越的なものとして成立しているのである。」

つまり、超越した概念が歴史的に成立するものである限り、不可能では無いという事である。

辻 邦生氏も同じ様な事を述べている。

「西欧的な概念というのは、プラトン的なイデア、つまり地上を超えた本質存在があって、そういうものが個々のものを通して現れている、というものです。日本人は、なるほど現実とかかわっているけれど、それを超えたものには本当には向き合っていないといえるんじゃないでしょうか。」

以前にも述べたが、柳田が「ヨーロッパではルネサンスというものが大きな仕事をして中世紀を壊している」と言い、又「羅馬とそれを教えた希臘や東国の学芸が、わずかずつ明らかになった頃を復興期と名づけている」と言っているように再度この時期に焦点を当ててみよう。 西洋文明=キリスト教と考えてしまうのは、致し方ないとは言え、ルネサンス=キリスト教と考えるのは、少し短絡的過ぎる。何故柳田がこの時期にこだわるのか、それは「羅馬とそれを教えた希臘や東国の学芸が、わずかずつ明らかになった頃」だからである。 柳田は、キリスト教以前の信仰を探っていたので、この時期の研究が必須だったのである。以来、西洋文明の水面下には、この時期の考え方、つまりネオ・プラトニズムが脈々と現在に至るまで流れているのである。 ここに、辻 邦生氏が「プラトン的なイデア」と言い、加藤周一氏が言う処の「プラトン的観念論を含む世界」があり、ヨーロッパをすぐにキリスト教と結びつけない柳田の姿勢は、よりネオ・プラトニズムに近いと筆者が考える理由があるのである。 「全ての道はローマに通じる」という諺も有名だが、「ローマは一日にして成らず」というのも有名である。ルネサンスからすぐに近代に移行した訳ではない。大事なのはその後の哲学的思考からこの近代文明が成り立っているという事である。

水道屋がありもしない普遍だとか相対だとか、ドイツの観念論だとか言っているのは、プラトンのイデアであり、プラトンの観念論なのではないのか。

矢張り、ルネサンスもフリーメイソンも知らないで、近代文明を語るのは無理だって事だよ。