未開の象徴
今回の天皇即位の礼にしても宮中で安倍首相が万歳三唱したりして滑稽この上ないが、日本が未開である以上日本の象徴=未開の象徴と言わざるを得ない。
異文化、多様性とあくまでも違いで逃げようとしても、聖俗未分離、政教未分離が未開の特徴である以上、多様性というものが文明国の尺度である普遍主義、自由・平等・博愛由来であるので未開国には適用出来ないし、当然自由主義諸国からの批判は免れない。
結局俺が輸入の学問はデカルト以降の社会に対応していて、日本の様な前近代、中世未開のオカルト社会には対応していないと言う所以なのである。
日本人は科学の手段である普遍性追求姿勢が欠如するので相対化出来ず、自分だけは常に特殊であり例外であると俺が言うように、多様性を導き出す事すらできないのである。
又、相対化できないので、日本の常識は世界の非常識と言うように、世界の常識は受け入れないが、日本の常識詰まり世界の非常識は多様性として受け容れろと言ってると同じで、一方通行であり双方向性に欠ける実に身勝手な考えなのである。
これはザビエルをお前の神は全ての民を救うと言いながら何故我々の先祖を救わないのだと困らせた手合いと一緒である。
これは他人の多様性は認めないが日本の未開性を多様性として受け容れろと言ってるも同じなのである。
自分への差別は許さないが他人への差別はするのが今の日本人なのだ。
日本は一事が万事この調子であり、公平、平等、公正さに欠けるという事です。
柳田國男が、
「まず、『文化』とは何ぞやと言う事である。私などの意見では、文化は『改良』の意である。より良くなる事、つまり原始という語に対立するもので、従って『原始文化』の語自身が一つの矛盾であると思う。」
と言った様に、
いい加減に未開性を遅れじゃないく違いである異文化として何でもかんでも文化に逃げるのはやめる事です。