自分だけはいつも特殊で例外=子供と一緒

日本会議カルトの馬鹿さ加減に振り回され思考停止状態な暮れの2018年だったが、今年こそが正念場である。

ここで相対化の欠如がすべての元凶である事を改めて検証してみたい。
科学の手段=普遍性の追求=相対化=客観視

「理屈じゃない」の世界=科学的(論理的)思考が出来ない=未開

捕鯨のことにしろ、オリンピックにしろ日本の常識が世界で通用しないのは、日本人は常識を相対化して良識にまで昇華する事が出来ないからだ、日本人は科学の手段である普遍性を追求する姿勢が欠如しているのでだ。

普遍性を追求しないから自分だけは常に例外であり特殊なのだ。

これが日本の常識が世界の非常識と言われる所以でもある。

近代文明の基本中の基本の個の確立とは、個人が神(絶対主)と一対一で対峙している姿を言い、自分を限りなく相対化して、国籍も、年齢も、性別もない一人を括り出す事である、これが近代 文明ひいては科学を構築している、普遍主義の根本原理である。

普遍主義の原理が、自由・平等・博愛なら、その実践は、国籍を超え、年齢を超え、性別を超える事であり、後の二つは英語すら要らないのに日本人は超えられない、日本人が英語英語と言うのは言い訳に過ぎない。

輸入の学問では日本の心は解けないと言いつつ、輸入の手法でしか解説すら出来ないジレンマ、これも同じである。

自分と向かい合う事=自分を客観視(相対化)する事。

生まれてすぐ大人になる西洋人と、死んでから大人になる日本人、
それは西洋人は生まれてすぐ自分と向かい合う事を要求さ、れ日本人がそれを要求されないからである。

皆がとか日本人がと言う時に自分だけは蚊帳の外、常に自分を度外視する、当事者意識皆無、参画意識絶無だから自分だけは傷付かない。

日本人は普遍性の追求をしないから、自分だけは常に例外であり、特殊であり、それが根拠のない全能感と日本人無謬論を支えているのだ。
天皇が人間宣言して以来、根拠のない全能感と日本人 無謬論だけが頼り。
これが未開性というものだ。

右も左も普遍主義を否定し拒絶する点では同じである。
近代文明ひいては科学が普遍主義で構築されている時にその代案なり対案も出さないで只否定は出来ない、それを根拠のない全能感、日本人無謬論って言うのだ。
右も左も普遍主義を否定し、拒絶して、せめて普遍主義を前面に打ち出すリベウヨ政党が出てくれたら未だ救いはあるのだが。

絶対の概念が欠如する日本では正義すら相太的であり、世間こそが正義である。
相対世界にどっぷりな日本人は他人との比較によってしか自分を測る事が出来ない、どうにかならんか。

他との違いばかり論って絶対に共通項で括ろうとしない日本人ってのは、科学が普遍主義で構築されていて科学の手段が普遍性の追求であり、要素還元主義である事を知らないのかね?