何故塚谷は俺をここまで排除しようとするのか

塚谷、海原が俺を気違いにまでしたてあげて排斥したがるのは、彼らが、彼らの学究的生活の基盤を揺るがす致命的なミスを指摘されたからだよ。

 

彼のしている事は、思想家、哲学者の名前を羅列するだけで、哲学しているわけではない、単なる自己満足のコケ威である。

 

彼はルネサンスがキリスト教とギリシャ哲学のシンクレティズムである事も知らなかった。

シンクレティズムという言葉すら知らなかった。

ルネサンスもネオプラトニズム、フリーメイソンも何も知らない。

ネオプラトニズムがフリーメイソンの哲学である事も知らない。

致命的だったのは、ありもしない、普遍だ、絶対だというドイツの観念論だと決めつけた、ヘーゲルの考え方がフリーメイソンの哲学であるネオプラトニズムに基いていた事すら知らなかった事である。

 

大体、ヘーゲルが単に自然の摂理を追求していたに過ぎない事すら気がつかない哲学など存在しない。

 

これは塚谷に限らず典型的な日本人の勘違いによるものでもある。

 

ノーベル賞受賞者の根岸さんが受賞のインタビューで「真理の探究もさる事ながら、科学も大切である」と言った時に、待てよ科学の目的は真理の探究じゃなかったのかと思ったが、日本人はノーベル賞受賞者ですらこの程度の認識なのである、詰まり日本には真理の探究、自然の摂理の追求、資源の追求する人間は1人もいないという事である。

 

日本の社会は途中で自分のセオリーのミスに気付いても転向出来ないので、半生を惰性で生きる事になるのだ。

何故なら日本にはリベウヨ(普遍主義)の概念が欠如するからである。

 

今迄普遍主義の追究をする中で、何人の転向者を見た事か、渡部昇一、西尾幹二、田中英道、転向しない限り、西部邁氏の様に入水するか俺みたいに国籍離脱するしかないのだ。

 

俺の最初の疑問は、学校で習った事が社会で通用しないというものだった。

柳田國男でさえ同じ事を言っていた。

その内真善美が衣食住に反映していない事に気付いたのだ、これが和魂洋才の追究を始める切っ掛けでもある。

柳田國男も真善美について書いている。

 

当初俺は輸入の学問は皆デカルト以降の社会に対応していて、日本の様な前近代中世オカルトの社会には対応していないと言っていた。

その内輸入の社会システムが教育システムに至るまで建前であり、本音は世間であり、苛めである事に気付いた。

輸入の学問は憲法学に至るまで建前であり、本音は情緒至上主義であり、人治主義であると気付いた。

 

これが加藤周一氏の所謂、「日本は思想と生活が関係ない、何故なら思想が外来だからである」という所以だ。

俺が海外の学説は全て普遍主義を前提に成り立っていると言う所以でもある。

 

日本人の所謂イデオロギーという代物は概ね普遍主義のアンチテーゼである、普遍主義の普の字も知らない日本人はテーゼを知らずにアンチテーゼを唱えているのだ。

 

結局マルキシズムも聖徳太子以来の御都合主義、日本人特有の都合の良いとこ取りだったに過ぎなかったという訳である。