相対化不足

日本人を一言で表すと「相対化不足」の一語に尽きる。
相対化し尽くして回帰した後に自由裁量は来る、詰まり趣味嗜好、好き嫌いの判断である。
日本人は好き嫌いの判断を恰も善悪の判断のようにすり替えるきらいがある、詰まり相対化不足の為に主観と客観を混同しているのである、客観の客観視なら猿でも出来ると筆者が繰り返し言う所以でもある。

何故日本人は美意識先行型なのか、それは聖徳太子以来のご都合主義で仏教の結論的無常論を安易に取り入れたからじゃないのか。
詰まり本来相対化し尽くしたその後に到達する自由裁量、即趣味嗜好の世界に入り込もうとするからである。
室町時代の茶の湯の心迄は日本人も哲学的にバランスが取れていたと今迄筆者は勘違いしていたのではないかとも思う、或いはその後のルネサンスがなかったからなのか。
結局趣味嗜好は自由世界でのみ楽しめると言う事である。

政治が安定して初めて趣味嗜好の世界に生きるべきところが、趣味嗜好の世界が先行してしまう不思議。
何故日本での趣味嗜好の世界が虚しいのかそれは現実逃避であるからに他ならない。
遊戯、遊山、三昧の世界に興じる事は侘び寂びしおりとは程遠い。

日本人は相対化不足の為に常に不安定な状態にあるのではないか?
とことん追求しないから常に欲求不満の状態にある、相対化し尽くして自分の哲学を持つ事だ。
相対化し尽くした後に到達する自由裁量の世界こそが普遍主義であり、自然の摂理なのではないのか。
たまたま近代文明が西洋文明だった為に不要な葛藤と軋轢を生じたのではないのか。
近代文明が普遍主義に基づきそれが自然の摂理だとしたら只それを学べば良いだけの事であり、徒らに逆らう事は意味がない。