人生に色合いを

はじめに言葉ありき、人生はロジックに始まりロジックに終わる。

"暇から考えるという事を考えているけど、やっぱ自分の言葉で言い表わせる位自分の頭考えて同じ言葉を100回位メモした位で全てが繋がって来るんじゃないとあかんよね、結局人間の認識の限界詰まりお互いの認識を認識出来ないという致命的な欠陥を克服するには全て自分で考える必要があるのさ。"

と最近ツイしたが、

認識の限界こそあるが、言葉の認識の違いさえ乗り超えられれば繋ぎ合わせる事は可能だ。

情報を蓄積し咀嚼して知識に迄昇華させる、それは情報を数学的に解読する事である。
文章を数学的に解読するそれには単位を統一する必要がある。
全てを自分の言葉詰まり主観という単位に統一してから解読するしかない。
情報を蓄積するとそれぞれ違う要素が共通項で結ばれ自然に繋がって行くのである。

それは縦横のインデックスを一致させる事でもある、俗にニューラルプルーリングと呼ばれているらしい。
自分がセオリーを完結する事が出来たのは最終的に縦横のインデックスが繋がったという事だ。
筆者が常々メモを取ること、同じ言葉を100回メモした頃には皆繋がって来ると言っていたのと同じだろう。
何故結論に至らないのか、それは自身の言葉で表現していないからだ、結局自分で考えない限り収斂して結論に至ることはない。

以下は初期の頃に書いた文章だが、今回相対化をし尽くし回帰してセオリーが完結出来た事で証明されたとも言える。

「学問の目的は真理の探究に在り、始原の追求に繋がる覚醒への道、悟りへの道という思考の延長線上に在る。
個の確立とは人間の存在そのもの(レゾン・デ・エトル)を確認する営みであり、覚醒への道の入り口である。」

「覚醒への道は思考の一段階としての内省により個に沈潜する事で開かれる。 個は全に繋がる唯一の窓であり、個がマクロ・コスモス(全)と繋がって初めて個が確立されたと言える。 」

「個の外側を通って全に到達する事は出来ず、個の内側を通ってのみ全に到達する事が出来る。 神がいないから個が確立出来ないのではなく、個が確立出来ないから神がいないのである。」

「覚醒するには、個人が眼を内側に向ける訓練を怠らず、常に自己を客観視(subject-object)する必要がある。 近道もせず、寄り道もせず只一途に真理を探究する姿勢、そこには何の短絡もあってはならない。」

「学問は悟りへの道の一段階に過ぎない。 細分化された学問により人間は覚醒への道を塞がれてしまっている。 細切れの学問では複雑な人間を解き明かす事は出来ず、一度細分化された要素を再構築出来る能力が常に要求される。」

「マクロ・コスモスと断絶したままの学問は実に虚しいものである。」

筆者はよく自分の自由と個人の自由は違うと言うが、この自分を限りなく相対化したのが個人であり、個人の自由と自分の自由は必ずしも一致するものではない。
詰まり人はそれぞれ皆様々な条件で自由を阻まれているからに他ならない。

この相対化し尽くして後は自由裁量詰まり好き嫌いの世界だけと言うのが趣味嗜好の世界なのである。
遊戯、遊山の境地、市中の山居であり、侘び寂びしおりの茶の湯の心である。

相対化を伴わない趣味嗜好の世界が何故虚しいか判った感じがする、それは現実逃避だからである。

それでは幸運を祈る。