すね毛マン先生の英霊君について

英霊君の表現が不快だと言う声が強いが、英霊君は表現の自由の最たるものであると思う、この世に言って悪い事などないと言う考え方である。

 

それは社会的な制裁を覚悟する事が前提だが、ここで言う社会的制裁と言うのは法的規制は勿論のこと私刑も含むのである。

すね毛マン先生の所謂「倫理なくして規則あり」であるね。

 

俺は、日本人の善悪、正誤は、快不快、好き嫌いであると思っているので、勿論自分のの宗教を冒涜されるのは不快には違いないが、神道は宗教ではないと言っている人達だし、ましてや、英霊と奉るものでもないのではないか、これは特攻は犬死にと言う表現が批判の対象になるのと同じである、そもそも現人神そのものがでっち上げであり、それも敗戦後人間宣言してるではないか。

 

最近の愛知トリエンナーレで慰安婦像が不快だと言う理由で撤去された事実はどう受け止めるのか、一々快不快で表現の自由を束縛して自由主義国家と言えるのかもう一度考えた方が良い。

 

全てが全か無か、聖俗身分離詰まり未開の特徴である、オールオアナンの日本人はすべてが美化か自虐の二分法である、と言う観点から見ればこれはまさに美化と自虐の戦いであるね。

 

元々日本人は神の元の自由と言う概念が欠如して、法の元の自由だけで自由を理解しているので、難しい、俺が日本にはリベウヨの概念が欠如すると言う所以である。

 

これが私権の行使にまで自己責任を問う原因になっているとは思わんのか、法で守られている権利を行使しただけで自己責任を問われる事が異常だと思わない日本人に何を言っても無駄だとは思うが、行き過ぎた自由を規制するの法律なら、法規制してしかるべきだと思うがね、快不快で善悪を判断するのだけは避けた方が良い。