女は怖い

帰国して1年半どうも前の女房が俺の事を悪く昔の仲間に吹き込んでいると見え皆俺に批判的になっているのに気付いたので50の時したためた自伝の抄を残しておく。

ハワイから戻ってからが大変だった。 空港に到着すると女房の両親は迎えに来ていたが、私の両親は元々息子の送り迎えする様な人間でないし、私の関係の人間は一人も居なかった。 そこには気まずい雰囲気がただよい、私達は挨拶もそこそこで別れた。 後で、女房が私を訪ねて来て、「第三者を立てて話し合いましょう」と言うので、私は、「そんな事をしたら、親戚の前で言いたく無い事迄言わなくちゃならなくなるけど良いのか」と言ったのである。 それ迄の彼女に比べかなり強気な発言で、周囲の人間に色々入れ知恵されたなとその時私が感じたからである。 私達の間には、私の浮気意外に彼女にも色々あり、私はその原因が全て自分にあり、全ては自分の責任であり、彼女の事は一切誰にも話さない様に決めていたので、彼女にもその事を理解させたかったのである。 慰謝料についても、その当時結婚六年間で貯まったお金が六百万程あり、半分以上は財形貯蓄に廻っていて、私としてはそれを崩すのは致命的であると思ったので、私からは二百五十万支払って、それで勘弁して貰いたかったのだが、受入れて貰えず、仕方が無いので、残りは私の親からとれと突っぱねてしまった。 後で聞いた話だが、彼女が嫁入り道具に持って来た電化製品等を私の家族が引き取って、残額を渡したらしい。 その後は以外とスムーズに運び、翌月の初旬には離婚届けの提出も済み私達は正式に離婚してしまった。 その時も私は結婚した時と同じに、中学三年生の時のスキー旅行の時のEのあの言葉を思い出していた。「柳田は絶対女で失敗する」。

自分の住んでいた所は、先にハワイから戻った兄の家族が住んでいたし、仕方が無いので私は裏庭に建っているアパートの一室に収容された。 二月の寒い日だった。湯沸かし器が無いと母に言うと、怒って「ここはハワイじゃない」と言った。たまらないので、荷物を纏めて家を出る事にした。 それから暫く高井戸のアパートで暮し始めた。 その頃別れたた女房も、実家の近くにアパートを借りて暮し始めた。 どう言う訳か自分も引っ越しを手伝った記憶があり、その時ハワイで一緒に仕事をしていた少年院上がりの漬物屋のKが手伝いに来ていた。 それでも、私は未だその時二人が関係がある等と思ってもみなかったのである。 その後少し経ってから、私が別れた女房のアパートを訪ねる機会があり、その時女房が関係を迫って来た時に、マリファナを吸うか私に聞いてきたので、その時はKの奴から貰ったんだなと思った程度で、わざと私が、「そんな物誰に貰ったんだよ」と聞くと、以前ハワイイで住んでいたテラス・ハウスに住んでいた私も仲が良かった、日本人と韓国人のハーフのホステスの名を出して、「J子にハワイに居た時に貰ったのよ」と言ったので、Jが普段はマリファナを吸う様な女ではない事を知っていた私は、「あいつはマリファナを普段は吸わないのに、お前にくれる訳無いだろ」と言ったのでだ。 すると、彼女が急に慌て出したので、何かおかしいと思い、それ以上詮索もせずに、大体私は日本でマリファナを吸っている程暇でも無かったし、マリファナを吸いながらセックスする趣味も無かったので、私は急に白けてしまい帰って来てしまったのである。 その後少ししてから、私はその漬物屋のKの女房から呼び出され、お宅の奥さんと家の主人が浮気していると評判になっていると文句を言われる迄Kと女房が出来ていた事に気付かなかったのだから、「俺も間抜けなもんだな」とその時思ったのを覚えている。 文句を言われた時は、既に離婚届けを出した後だったので、奥さんには「離婚した人間の事は申し訳ないけど、責任は持てない、だからと言って俺が貴女と寝る訳にも行かないし」と断った。 誰かと出来ているのは知っていたが、まさかKだとは気が付かなかった。 そう言えば、自分達が帰る時空港にKが送りに来ていて、涙を流しているのを見て、変な奴だなと思ったが、女房と別れるのが寂しくて泣いていたのだと思った。

学生時代もそうだったが、その時も私のテリトリーで仕返しをしようとし、人間関係を壊してしまうのはどうも彼女の性格らしいと、その時確信したのだ。 その後私が、所沢に住んで居た時も何回か電話で復縁を迫られたが、その度に彼女は酔っぱらっていたので、酔っ払いが嫌いだった私は一度彼女を怒鳴り付けてしまい、それっきり電話も無くなってしまった。 私が沈黙を守り続けたので、母等は真相が知りたかったのか、それとも只の好奇心だったのかは定かでないが、常に鎌を掛けて来たが、その後十年以上私は押し黙っていて、母が事実を知ったのはつい最近の事である。 風の便りに彼女も再婚して子供が出来て幸せに暮していると聞いた時は、私も心の何処かに引っ掛かっていた重荷が取れて少し楽になった。

その後、ハワイに居た時離婚の原因になったMが追い掛けて来て一緒に暮す事にした。 その時のアパートが二人には何とも言えず狭いので、会社から金を借りて所沢にマンションを買い、引っ越した。 その時も、母から三百万円を一月半借りただけで、兄弟から文句が出た。 私は一月後に、結局は後で母が現金で返してくれたが、利子を付けて三百五万の横線小切手を作り、持って行った記憶がある。 Mとは一年一緒に居たが、彼女はある大きな新興宗教に入っていて、私の持っていた十字架は捨ててしまうし、母親が日本に訊ねて来た時、会の支部に、私が信教の自由を与えないと虚偽の訴えを起こし、或日自分が家に帰ると、私がなけなしの金で近所の家具センターで買った炬燵にその親子を含めて五人の人間が入り、宗教論争が始まった。 私はその連中に、「私は仏壇の部屋も与えているし、幼児洗礼のカトリックだから私の年と同じ位の歴史しか無い宗教に転向する事はない」と言って説明した。 最初の内は宗教論争を仕掛けて来た人達も私に歯が立たないと思った途端、親子に鉾先を向けた。 その次の日家に戻ると二人の痕跡は跡形も無くなっていた。

それからが苦労の始まりだった。 これが所謂「群の制裁」と言うものなのか、独身の時は何人の女性と付き合おうが、誰も何も言わないが、一度離婚すると、途端に付き合う女性の数を数え始めるものである。 所沢の生活は大変だった。経費を払うと、可分所得は僅か数万円という生活だった。 ある時、自分のその時所属していた商事部で、御中元の内見会があり、その後場所を提供する店側の担当者と飲みに行き、酔っぱらってしまい、知らない高級な店に迷い込んでしまったい、散財を余儀無くさせられてしまった事がある。 それが元で、折角新調しようと思っていたスーツを断念する事になってしまったのである。 その後、珍しく法事に呼ばれ、袖口の擦り切れたスーツを着て行った私を父が見て、「馬鹿にしてるのか」と怒った事があり、私には「馬鹿にしているのでは無く、買えないのです」と、答えるしか無かったのを今でも覚えている。 それ以来私は、村八分ならぬ村十分になってしまい、家族写真にも入れなくなってしまった。 一度家族写真の話を父にした事があるが、その時父が言ったのは「誘ってもどうせ来ないだろ」という一言だけだった。 私の父母とはいつもこんな風なのである。